はやく許してくれ

生き恥に心をすり減らした凡愚のチラ裏

このブログのタイトルについて

とりとめて書くことが起きていないので、昨日思い付きで作ったこのブログのタイトルについて書いていこうと思う。

そもそも、私は文章を書くときに格好つけることをあまりしたくなかった。

ツイッターを始めたのも、とにかく自分のストレスを包み隠さずシャウトするためだったし、もし超絶暇人がいれば私のツイートをずっと前から遡ってくれても良いけど、全てがコンプレックスへの嘆きや絶望をネガティブに書きなぐるか、自分を慰めたり戒めたり笑ったりといったことをずっと最初からツイートし続けている。

今はメンヘラ界隈に身を置いて、というかメンヘラの人たちと積極的にかかわるようにして人間関係を構築しつつあるけれど、本来これはとても不本意なことだと考えている。自分の気持ち悪い本音を包み隠さずインターネットにシャウトするのは良い。見知らぬ人にそれを見せつけることは一種の快感でもあった。しかしそれが人間関係を伴うとなると話は別だ。

人間を信頼していないわけでもない。むしろ信頼している方だ。性善説信者だ。

だけど、自分の恥を知人に見せつけるほど理性が崩壊しているわけでもない。親しき中にも礼儀ありとは言ったもので、長い関係を紡ぐ人に対しては、秘密の共有よりもむしろ、秘密を持つことの許容が必要だと思っている。

だからこそ、いつか崩壊することを前提とした、いわゆる「破局を前提に付き合う」という、昔付き合っていた恋人が離れる原因となった信条を抱えることで、私は今も自分の生き恥を、コンプレックスを、醜い自我を見せつけることができている。

閑話休題。ブログのタイトルについてだったね。

文章を書く、人に「自分」を見せつけることの意味については書いた通りで、それはツイッターに限った話ではなく、ブログでも同じだと考えた。

ツイッターではメンヘラが「死にたい」「生きているのがつらい」とよくツイートしているけど、私にとっての「死にたい」は「自分の都合よく物事が運んでいってほしい。せめて最悪なケースだけは回避して物事が収束してほしい」という意味で、それは詰まる所、失敗を容認してくれということで、もうそれだけ精神の安寧は保たれる。

私が一番恐れるのは、存在を許容されず、12歳にして学校にも家にも物語の中すらも居場所を失った孤独感だ。

そして、私の性格は詰めが甘く、そのせいで舐めてかかって失敗するような、仮に成功しても自分の努力を「こんなの全然大したことないですけど?w」って言うことで安い虚栄心を満たすような奴だ。

そんな奴は超有能でない限り好かれることはない。

そうしたクソみたいな性格と過去を持つ無能で凡愚な人間が、ずっとずっと心に抱えていて、一生現実世界では理性が邪魔して主張できないような言葉が、

 

「はやく許してくれ」

 

だったんだ。

私の醜い信条を書きなぐるブログのタイトルに、これ以上ふさわしい言葉はない。

そう思ったんです。