利害関係
2018年も始まりまして、多くの人は「新年の抱負」といった形で、過去を振り返り、目標や諦念を決めるのでしょう。
別段、そういった抱負のようなものも無く、考える気もありませんでしたが、唯一私が購読をしている方のブログが更新されておりまして、そこに書かれた言葉が何かを彷彿させたので筆を取った次第です。
「わたしは利害関係のない人間関係は存在しないと思っている。」
昔、Twitterで繋がっていた人の言葉です。
最近、書かれた言葉なので、今の書き手の信条はきっと変わっていないと思います。
この言葉の意図は、以下のように続いています。
子にしろ友人にしろ恋人にしろ、「自分の生んだ子だから」「気が合うから」「一緒にいたいから」という理由すら、わたしは利害関係と捉える。
生んだ子だから育てる、代わりに子のかわいさを甘受する。
気が合うから一緒にいる、だから共に出かけるための相手ができる。
一緒にいる、だからひとりになることはなくて安心する。
わたしはこれを、気持ちのよい利害関係だ、と思う。
ちょうど私が18歳になる頃、ひとりで抱いていた考えとまったく同じでした。
同じように、私が人助けをするときも、利害関係を意識します。
何も、助けることによって謝礼を貰いたいわけではありません。
例えば目の前にケガをした子供が居たとして、事案だとか、そういった事情を排除すると、必ずと言っていい程に私は「大丈夫?」と声を掛けますし、可能な範囲でケガの消毒だとか、自分でどうにもならない範囲であれば「近くに保護者は居ますか?」と周囲の助けを探ったり、病院に連絡しようかなど、試案します。
思うに、これは善意です。
では、この善意の発生源はどこなのかと考えたところ、それは「痛みの共感性」にありました。
端的に言って、「痛い」と訴えている人の感情に触れると、私は似たような痛みを覚えるようでして、その「自分の痛み」を取り除くために、手助けをしているみたいです。
これも立派な利害関係ですね。
これは子供に限らず、ホームで寝ている泥酔者を介抱する時や、寒い中外で働いている人を見た時も、手を差し伸べたり、温かみのある言葉をかけたりしています。
外面や行動だけみたら、「善人の行動」だと扱ってくれるかもしれません。
大抵はこういう話をするとこれもまた「冷たくて寂しい考え」と言われるが……。
そして、この言葉のとおり、この考えを誰かに説明すると、同じようなことを何度も言われました。
普段から他者への共感性が乏しく、誰かに手を差し伸べられない人は、差し伸べる人に対して「無償の愛」を妄想しているのだと思います。もしくは、そうであってほしいと思っているのでしょうか。
そして、共感性に乏しいからこそ、この手の考え方を「冷たい」「寂しい」と揶揄するんだと思います。
みんな、自覚せずにやっている癖に、知らなければ悪くは無いと平気で思っているみたいですね。
こういった思想の乖離に気付く度、「冷たいのはどっちでしょうか」と心に靄が立ち込めていました。
今は、昔以上に周りへの興味が失せてしまっているようでして、多くの失意や悲しみが「諦め」に変わったり、忘却の彼方に行くことが増えてしまいました。
それでも私はこれからも、同じように偽善者みたいなことを続けていくと思います。
最後に、人を助けるときは、お金を貸す時のように「あげた」つもりになることが大事だと思っています。善意を「あげる」んです。
今のところ、100人に良いことをして、御礼の言葉はほぼすべての人から返ってきます。
行動で返してくれる人は、3人も居れば幸運でしょう。
そして、大体10人ほどの人が、仇で返してきます。
この事実に憤りを感じなくなることが、随分と消極的ではありますが、2018年の抱負ということにして、更新を終わらせていただきます。
それでは。